東大寺大仏殿
先日、奈良を旅行した際に、久しぶりに東大寺の大仏殿を訪れました。仕事柄、建築を見に行くことが多いので、いつもは奈良時代の遺構の三月堂や転害門を見に行くことが多いのですが、今回は子どもも一緒なので、大きくて分かりやすい大仏殿を見に行きました。
参道を進むと、まずは南大門が見えてきます。大仏様という独自の様式でできている迫力のある大きな門です(鎌倉時代)。
東大寺は、源平合戦の頃と戦国時代の二度、大きな焼き討ちにあっています。奈良時代の大仏殿も、構造的に限界の大きさだったので、途中で傾いて「支え棒」などで補強していたそうですが、鎌倉時代に再建する際に、当時の技術ではそれほど大きなものは作れず、福岡に流れ着いた中国人の技術者を連れてきて、見た目より構造最優先で建て替えたのが「大仏様」というわけです。通常の「和様」は、柱と梁をそれぞれつないでいくのですが、大仏様では「貫」(ぬき)といって、太い柱を梁が貫通して一体構造とすることで強度を上げて、大きな建物を実現しています。奈良時代の大仏殿は「行基」という僧の勧進に寄っていますが、鎌倉時代は「重源」という僧が勧進を行い、資金を集めました。大伽藍の再建に対して資金が乏しいことと、構造的な理由もあり、非常に簡素で質実剛健な鎌倉時代らしい南大門が実現しました。大仏殿は、戦国時代に焼けてしまったため、南大門が鎌倉時代の大仏様では唯一の遺構です。
南大門の左右には、有名な仁王像が並んでいます。歴史の教科書でも勉強しましたが、運慶・快慶の作と言われています。二人とも奈良を本拠とする「慶派」の仏師で、現代的に言うと仏師の職人集団のリーダーといったところでしょうか。全国各地のお寺に、運慶や快慶の仏像がありますが、南大門の仁王像が一般にはもっとも有名です。平安貴族の優美な仏像に対して、武士の気概を表した力強い像で、法隆寺の仁王像に少し似ているなど、焼ける前にあった奈良時代の仏像に近づけている面があると思います。全体的には、鎌倉時代のデザインは、奈良時代を手本にしたものが多く、日本の「ルネサンス」(古代の復興)という面があるんですね。
さらに参道を進むと、中門が見えてきます。こちらは江戸時代に「和様」で再建されているので、南大門と雰囲気が違って、優美な感じがします。中門を入ると回廊に囲まれた大仏殿前の広場が見えてきます。そして正面には大仏殿。さすがに大きいです。
現存の大仏殿でも十分大きいような気がしますが、奈良時代・鎌倉時代のものは幅が約2倍とさらに大きく、今の大仏殿は江戸時代の再建時に半分に縮小されたものなんですね。創建当初はどれくらいの大きさだったんでしょうか。奈良時代の聖武天皇の頃の日本人の気概が感じられます。
中央の唐様の湾曲した屋根の下に大仏様のお顔が見える窓があるのですが、この日は閉まっていました。
そして、中にはいると大仏様が鎮座されています。久しぶりに拝見すると、やはり大きいですね。大仏殿もそうですが、大きいとやはりシンプルに伝わるものがあり、何か守られているような安心感を感じました。
写真右側の柱を見ていただければ分かりますが、一本の大木ではなく、小さな木を寄せ木にして作られた集成材でできています。江戸時代初期でも、大仏殿に使えるような大きな木は伐られてなくなっていたのかもしれませんね。
最近は奈良も外国人観光客が多く、柱をくり抜いた「大仏様の鼻の穴」もたくさんのアジア人観光客でにぎわっていました。小学校の修学旅行の時に、私は少し太っていたので通り抜けられなかった記憶がありますが、大人の人が通っているのにはビックリしました。
最後に(ベビーカーだったので)回廊を回って、大仏殿を後にしました。やはり、あれだけの大きさから創建した人の熱意が伝わってきて、昔の人の建築や文化に対する想いが感じられます。背筋が伸びるとともに、現代の建築関係者として、きちんと頑張っていかないといけないと、想いを新たにしたのでした。
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