ペリリュー・沖縄戦記/ユージン・B・スレッジ
第二次世界大戦の激戦地であるペリリュー島と沖縄の戦闘にアメリカ海軍海兵隊の前線で戦う兵士として参加した体験を、戦後30年を経てまとめた記録です。ペリリュー島は硫黄島や沖縄と並び日本軍の抵抗が最も激しかった戦場で、天皇陛下が今年(2015年)慰霊に訪問されました。
通常の戦記は取材した作家が分かりやすく書くためもあり、戦場全体を眺めるような俯瞰した視点で書かれています。いわば鳥になって戦場全体を眺めている書き方です。ところが、この戦記は、あくまで前線の兵士として実際に体験したことを現地にいる視点で、いわば地面にいる虫の眼で書かれています。また、通常は前線での残虐な場面や危険で過酷な状況、その際の兵士の気持ちは、抽象化され触れられることはありませんが、この記録では淡々と赤裸々に描かれています。
一読して印象的なのは、ドラマや高揚感が全くなく、過酷な現実が延々と果てしなく続くところ。沖縄戦で日本軍の組織的な抵抗が終了した際に夕日がきれいな場面が出てくるのですが、「これが戦争小説なら、あるいは私が劇的効果をわきまえた語り手なら、沖縄最南端の崖から見事な夕陽を万感こめて見つめるシーンで、ロマンチックに話を締めくくることもできるだろう。しかしそれは、われわれが直面した現実ではなかった。K中隊はもう一つ、汚れ仕事をこなさなければならなかったのだ。」と述べられ、疲労の限界を迎えながら、平定した地域でまだ降伏していない日本兵を掃討し、多数散らばる日本兵の死体を埋め、日米両軍の装備を回収していく様が描かれています。
唯一、高揚感があるのは、著者が兵隊を志願し、訓練を受け、前線に出る前までのところです。我々が戦争映画を見て感じるような愛国心と国を守るという理想に燃えて、海兵隊の前線で戦う部隊を希望しますが、ペリリュー島で上陸の際に過酷な現実が突きつけられ、甘い想いは砕かれます。「艦砲射撃が苛烈になるにつれて、いやが上にも緊迫感が募り、体じゅうから冷や汗が噴き出した。胃がキリキリと痛む。喉が詰まってつばを飲み込むのもままならない。」「われわれは低木の密林を進撃し、空き地に出て、停止するよう命令が下されたところで、私は初めて敵の死体に遭遇した--日本軍の衛生兵ひとりとライフル兵ふたりの死体だった。衛生兵が救護しようとしていたところ、砲撃を受けて戦死したに違いない。衛生兵のわきの救護箱は開いたままで、包帯や薬が丁寧に収納されている。衛生兵は仰向けに倒れ、避けた腹が口を開けていた。珊瑚の細かい粉が付着してきらきらと輝く内蔵に、私は怖ぞ気立ち、ショックに打ちのめされた。これが生きた人間だったのだろうかと、私は苦悶した。人間の内臓というより、子どもの頃に狩猟で仕留めて解体したウサギやリスの臓物のようだ。日本兵の遺体を見つめながら、私は吐き気に襲われた。」「やがて古参兵の相棒が歩み寄り、ほかの日本兵の死体を身ぐるみはがしにかかった。(中略)この間、私は身じろぎもせず、口をつぐんだまま、ただ呆然とその場に立ちつくしていた。二人の古参兵が背嚢とポケットをまさぐるために引きずり回した日本兵の死体は、大の字のまま投げ出されていた。私は思った--自分もいずれ、敵兵の死体をこれほど無頓着に扱えるほど、感覚が麻痺してしまうのだろうか?あんなに冷然と敵兵の遺品を略奪できるほど、戦争は私からも人間性を奪っていくのだろうか?そのときはわからなかったが、やがて、露ほども気にしなくなる時が私にもやってくる。」
そして、一ヶ月以上におよぶ前線での過酷な戦いが続きます。重い装備を背負い、前線の地面で夜は日本兵の夜襲に警戒しながら睡眠もままならない戦い。「スナフが何気なくケイバー・ナイフを取り出し、右手がすぐ届くあたりで、珊瑚の地面に突き立てた。私は照明弾の緑色の光のなかに浮かぶその長い刃に目をやった。スナフが手の届くところに突き立てた理由に思い当たると、たちまち胃が締め付けられ、背中や肩に鳥肌が立った。」「砲撃が長時間に及ぶときは、悲鳴をあげ、すすり泣き、あたりかまわず泣きわめきたくなり、私はこの抑えがたい激越な衝動としばしば必死に戦わなければならなかった。ペリリュ-島の攻略は遅々として進まず、砲撃下でいったん自制心を失えば、私の精神はばらばらに打ち砕かれてしまうのではないかと不安に駆られた。(中略)夜は永遠に続くかと思われたが、私はうたた寝さえできなかった。」
沖縄戦でも、沖縄中部への上陸こそ無抵抗で気楽な状況だったものの、首里高地を中心とする沖縄南部の日本軍陣地に近づくと状況は一変します。「たちこめる屍臭は圧倒的だった。(中略)私は一瞬一瞬を生き延びていた。死んだ方がましだったと思うことさえあった。われわれは底知れぬ深淵に--戦争という恐怖の真っ只中に、いた。ペリリューのウルムブロゴル・ポケット周辺の戦闘では、人の命がいたずらに失われるのを見て、沈鬱な気分におそわれた。そして首里を前にしたここハーフムーンでは、泥と豪雨のなか、ウジ虫と腐りゆく死体に囲まれている。兵士たちがもがき苦しみ、戦い、血を流しているこの戦場は、あまりに下劣であまりに卑しく、地獄の汚物のなかに放り込まれたとしか思えなかった。」「われわれは頭のつぶれた敵の将校を砲壕の端まで引きずっていき、斜面の下に転がした。暴力と衝撃と血糊と苦難--人間同士が殺し合う、醜い現実のすべてがそこに凝縮されていた。栄光ある戦争などという妄想を少しでも抱いている人々には、こういう出来事をこそ、とっくりとその目で見てほしいものだ。敵も味方も、文明人どころか未開の野蛮人としか思えないような、それは残虐で非道な光景だった。」
少し意外だったのは、今まで日本軍側から書かれた記録はたくさん読んできましたが、これらの戦いは空も海もアメリカ軍が圧倒的に支配し、自由に砲撃と爆撃や補給ができる中での有利な状況だったにも関わらず、前線ではこれほどの苦労がなされていたということです。
訳者も述べているように、本書が戦場体験記として希有の存在なのは、戦争を知らない世代が戦争の現実を感じられる点です。通常は戦場で感覚が麻痺したり、思い出したくない辛い記憶を封印したりせざるを得ませんが、最後まで一定の正気を保ち、冷静に記録し(戦場でメモを書き聖書に挟んでおいたとのこと)、30年の時を経て、振り返ることが出来る精神力には驚かされます。著者は戦場から離れて帰還する船上で、「戦争にあってもっとも苦しむのは『他者の苦しみに共感する力』であり、『他者のために深く感じる者』だと悟った」という。その感じる力が、30年の時を経て、この記録につながったのではないでしょうか。
少しずつ世の中の勢力バランスが変わり、不安定で争いの増えつつある状況の中で、戦争の現実や他者への共感の力を持って、いろいろなことを考えていけたらと思いました。
大学教授としての戦後の30年を経て、著者はこう語ります。「太平洋戦線での体験は脳裏を離れることがなく、その記憶は私の心につねに重くのしかかってきた。しかし時の癒しのおかげで、今では夜中に悪夢から目覚めて冷や汗と動悸に襲われることもなくなった。つらい営みではあるが、ようやく私は自分の体験を書き上げることができるようになったのだ。この回想録によって、私は第一海兵師団の戦友たちに対して長いあいだ感じてきた責任を果たすことができる。彼らはわが祖国のためにあまりにも大きな苦しみを味わったのだ。一人として無傷で帰還することはできなかった。多くは生命を、そして健康を捧げ、正気を犠牲に捧げた者もいる。生きて帰ってきた者たちは、記憶から消し去ってしまいたい恐怖の体験を忘れることはできないだろう。しかし彼らは苦しみに耐え、務めを果たした--本国の安全が保たれ、そこに暮らす人々がいつまでも平和を享受できるように。」
戦争を体験した人が平和を強く望むのは、勝者も敗者も同じようです。(講談社学術文庫)
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