鎌倉幕府と朝廷(シリーズ日本中世史②)/近藤成一
岩波新書のシリーズ日本中世史の第二巻です。一巻は中世全体の流れを文化も含めて概観する内容でしたが、今回の第二巻は、鎌倉時代の動きを主に政治の面から追った内容です。
我々はどうしても現代に生きているので、現代の常識がいつの時代も同じだと思ってしまいがちです。例えば、現代は中央集権で中央政府の力が強いので、政府とはいつもこういうものだと思ってしまいます。鎌倉時代と聞くと、鎌倉にある幕府は、今の日本政府と同じようなものが鎌倉にあったと思ってしまいます。果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、鎌倉時代は鎌倉の幕府と京都の朝廷が協力して世の中を治めていた時代と言えると思います。現代でも同じですが、政府を運営する主な内容は、①税金を集めること ②法律を定めてルールを示し、裁判でもめ事を仲裁し、違反した場合は警察権を用いて平和な世の中を維持すること、主にこの二つなのではないでしょうか(現代は教育や福祉もありますが、昔はなかったので)。鎌倉時代は、この二つとも、京都と鎌倉の双方が受け持っていました。
ひとつめの、税金を集めることについては、地頭が担当するのですが、鎌倉幕府の地頭がすべての地域に置かれたのではなく、まずは平家の没官領だけに置かれ、承久の乱の後に、京都方についた武士の領地を没収して、そこにも置いたそうです。つまり、それ以外の土地は、以前通り京都の朝廷が徴税を行っていたんですね。
また、警察権や裁判権も、京都の朝廷と幕府のそれぞれにあったそうです。幕府では守護や問注所が警察と裁判を司るところですが、京都にも平安時代から続く、裁判の機関があり、それぞれの管轄地を治めていたそうです。警察については、武士の集団で武力のある幕府の方が警察力が強いので、朝廷の言うことを聞かないと、幕府に依頼する面もあったようですが。元寇の際に、元から九州に届いた国書が、まずは幕府に届けられ、返書が京都の朝廷に届けられて、返送するかどうかが決まる流れだったことが、当時の両政府の分業と協力ぶりを示しています。
面白いなあと思ったのは、徳政と相続に関する部分。第一巻にもあるように、平安時代までは、貨幣の使用は少なく、物々交換の時代だったのですが、平清盛の日宋貿易の頃から銅銭が中国から輸入されて入ってきて、社会が少し豊かになって、贅沢品が以前より出回るようになっていったそうです。そのためお金を借りて返せなくなり、領地を失った御家人が増えて、社会が不安定になってきたようです。体制を維持して社会の安定を図るため、借金の形に取られた領地を元の持ち主に返すことも含めて、世の中の安定を回復する徳のある政治が徳政で、当時の人たちにも支持されていたとのこと。なるほど、そういうことだったんですね。
また、鎌倉時代の初期は、未開発の土地も多くて、社会が発展の余地の大きい時代だったので、分割相続で子どもに土地を分け与えても、それぞれが未開発の土地を開墾すれば十分食べて行けて合理的だったそうです。ところが、鎌倉時代後半になると、当時の技術で開発できるところが残り少なくなり、分割相続すると土地が細分化して経営が立ちゆかなくなり、争いが頻発するようになってきたとのこと。それによる、社会の不安定化や人々の不満が、鎌倉幕府の崩壊につながった一因のようです。
借金の形に領地を失う御家人が増えて社会が不安定化し、分割相続で収入が減って暮らしが厳しくなって争いごとが増加、そこに天皇の系統が二つに分かれて争いが起こるなどしていろいろな勢力争いが複雑化する中で、幕府は締め付けを強化して安定化と維持を図ろうとするのですが、最後は有力御家人も離反して崩壊していまいます。
現代も、社会が発展している高度成長期には、パイが拡大するのでいろいろと上手くいっていましたが、低成長時代に非正規社員が増加し、人口も減少し始めていろいろと難しい面も出てきているので、大きな流れでいうとある政治形態の末期に向かっているのかもしれませんね。
現代を考える上でも、いろいろと参考になる面もあるので、たまには歴史を学んでみるのも面白いかもしれませんよ。「歴史は繰り返す」のですから。(岩波新書)
Write a Reply or Comment